:hyuki: レオンハルトの「フーガの技法」で歩く 朝の散歩をするときには、グスタフ・レオンハルトの演奏する「フーガの技法」を聴いています。もちろんバッハの作品です。 演奏に合わせて歩いてみると気がつくのですけれど、テンポは決して一定ではなくて絶妙な揺らぎがあることがよくわかります。もちろんそれは演奏者が意識してやっていることでしょう。聞いているときにはとても自然なので気がつかないのですけれど、体を動かすとその揺らぎを感じ取れてちょっと面白いです。 歩いてるときには、AirPods Proをつけていて、Siriに向かって依頼して演奏を開始してもらいます。「hey Siriフーガの技法」というと、それで再生するようにショートカットを定義しています。でも時々失敗してSiriがウェブで「フーガの技法」を検索した結果を教えてくれたりします。「フーガの技法を起動」のように言えば、失敗が少なくなることに気が付きました。 それにしても、散歩しながら声に出して「フーガの技法」というだけで演奏が始まるなんて夢のような時代ではありませんか。
🪑「結城浩の談話室」を実施しました。今回は、長年メルマガをご購読くださり感想をコンスタントに送ってくださる20代の会社員女性と二人でお話ししました。普段からたくさんの読書をしておられる方で、海外に向けて本の紹介などをしていく活動に関して情報交換を行いました。創作活動と現在の仕事との関わりや、転職と将来の生活について、雑談を交えつつ楽しくおしゃべりすることができました。感謝です! #結城浩の談話室
かなり試した方だと思うんですが、いまだにしっくりくるMastodonアプリを見つけられていない。Twitter、Bluesky、Threadsの公式アプリは結構しっくり来るんだけど…。 みなさんMastodonのiPhoneアプリ、何使っていますか。ぜひおすすめを教えてください。また試してみたいので。
🏠さっき一匹コバエを見つけた。これは警戒せねば。シンクの掃除頻度を上げて、ゴミ箱はこまめに回収することにしよう。玄関にヒノキなどのアロマオイルもいいらしい。
:hyuki: 今週の自分の活動を振り返って発見した3つのこと(新しい発見、大きな流れの発見、複数プロジェクトの関係性の発見)/自分の活動を改善していくための根底には「記録」がある 毎週土曜日の早朝は、「展望台に登る」と称して1週間の活動を振り返り、これからのことを俯瞰する時間を持っています。 今日は土曜日なので、今日も展望台に登っていました。今日は1時間フルフル使いましたね。 今日は大変充実した展望台でした。一言で言うと、新しいアイディアがいろいろ浮かんだことと、これからの活動に関して、とても大きな流れのようなものが見えてきたことと、複数のプロジェクトの関係が新しくわかったことなどが挙げられます。 大体、展望台に登ったときには、esaに記録してある先週の展望台の記録を複製して、それを読み返すところからスタートします。そうすると毎回驚きます。つまり忘れていることがたくさんあるからです。 そこには直近の問題や少し長期的な問題などが書かれており、活動内容や自分の1週間前の気持ちが描かれていることになります。それを読み返して、現在の自分で更新したり、また差分を記録したり、不要になった記録を削除したりします。それが基本的な作業ですね。 そうやって自分がやっているたくさんのプロジェクトを振り返っていくわけですが、当然ながらいろんなことを思い出したり新しく思いついたりします。それもまたesaに書き込んでいきます。 大体毎回たくさんのことを思いつくので、書ききれなくありますが、大事なものに絞って書きます。そうすると、先週の自分、先々週の自分、のような過去の自分の積み重ねがプロジェクトごとに残ることになります。細かい内容がありませんので、大変俯瞰して、自分の気持ちの変化を眺めることができるわけです。しかも、毎週の自分の現実と照らし合わせるわけですから、非常に精度が高いプロジェクトの振り返りになります。自分が1週間にできることや、できないことの度合いも、普段の自分のパフォーマンスとして体感的にわかるようになります。 新しいアイディアはいろいろ思いつきますが、それを書き留めることによって、自分の記憶力の衰えや、忘れっぽさなどが大きくカバーされます。それはありがたいことですね。 それから、自分の活動をそうやって感じていると、一つ一つのプロジェクトだけではなくて、プロジェクトを大きく眺めたときに、自分が向かう活動の方向性が見えてくることがあります。大きな流れのようなものですね。高いところから平野を眺めて、かわの流れの向きを調べるみたいなものです。 今日はそういう発見も色々とありました。大きな流れですね。でもそういったことは、実のところ展望台に登っているときに初めて気がついたわけではなくて、普段からちらちらと思ってはいることなんですよね。ただ、展望台に登る毎週の土曜日の早朝のように、ちゃんと時間をとって、改めて考えるから、記録に残り、形に残るというわけです。大変結構なことです。これこそ習慣の力、記録の力ですね。 大きな流れを意識すると、個々の活動の向きにも影響があります。つまり、個々の活動始めるかどうかや、続けるかどうかなどを考えるときに、その「大きな流れ」との関係を心に止めることになるからです。もちろん、多様な活動をすることが大切ですけれど、あまりにも大きな流れから外れた方向に力をかけすぎるのも良くないでしょう。つまりそこには、自分はしょっちゅう忘れるけれど、本来、自分がやりたいことに集中するという働きがあることがわかります。 しょっちゅう忘れるのにやりたいこと、というのはちょっと矛盾している表現ですけれど、多分この文章を読んでいるあなたには伝わると思います。実際のところ、自分はこういうことをやりたいなぁと思っていても、忘れることはよくあるんです。大事なことだけれども、抽象度が高かったり、あまりにも大きすぎて、意識に留まらないような状況ですね。自分の頭の上に空があることを忘れているような状況ですね、比喩的に言えば。なので、たとえば1週間に一回位、意識的に空を見上げるのは大事なのでしょう。 そのような、複数のプロジェクトにまたがった、大きな流れとともに、展望台を通じて今日発見したのは、具体的なプロジェクトの関係性です。意外に、あるいは当然ながら、自分1人がやっていることですから、自然と何か関係性を持ったプロジェクトに取り組む傾向があります。普段は意識していないんですけれど、俯瞰することによって「このプロジェクトとこのプロジェクトは実はこんな風に組み合わせたら良いのではないか」と気づくことがあるのです。 抽象的すぎるので、1つだけ例を挙げます。たとえば今日、実際には先週気づいたこととして、この「展望台に登る」というメタプロジェクトと、自分宛にリマインドをして復習を行うtriggerというシステムの間には関係性があります。 つまり、1週間に一回展望台に登って自分の活動を俯瞰した結果を、1週間の間折に触れて自分にリマインドするというのは大変理にかなっているということです。 1週間に一回展望台に登るという活動を、バラバラになった点として扱うのではなくて、triggerシステムによってテンとテンをつないだ線にしてやるということです。 triggerシステムはスクリーンショットを自分にメールで定期的に送るシステムですので、早速私は今週の展望台のサマリーを、triggerシステムに入れて星印をつけました。これで、私が解除するまで、この展望台のサマリーは、3時間ごとに自分にメールされることになります。もちろん、毎回全部を復習するわけではありませんけれど、自分の目の端に止めることによって今日の展望台の結果をほんのちょっぴり意識し続けることになるのです。これがテンとテンを結んで線にするということの具体的意味です。 実は、星印をつけた項目を毎回メールで送るようにするというのは、最近自分が実装したtriggerシステムの改良です。それが今回展望台に登る活動に生かすことに利用できたことになります。これは大変嬉しいことです。 そして、先ほども述べたように、triggerシステムと展望台に登ることをこのように結びつけることができたのは、まさに展望台によって、複数のプロジェクトが心のどこかに残っていたからです。 そのように考えてくると、自分の活動の改善について、その根底にあるのは、やはり作業ログや展望台のサマリーのような「記録」であるとわかります。 「記録」によって、自分の「記憶」を補うことができ、自分の普段の意識の片隅に過去の自分の活動や考えたことなどが留まるため、自分の活動を改善させたり、広げたり、あるいは逆に整理したりすることが可能になるのです。 そんなことを、朝の散歩をしながら考えていました。 いつもお読みくださりありがとうございます。 これはなかなか良い話で、適用範囲も大変広いので、いつか加筆修正して「結城浩のメールマガジン」の読みものにしたいですね。
:hyuki: test2 test2
:hyuki: 早朝活動のプログラミングと自己肯定感の話から始まって、大きな違いが生まれる2つの方向について考える 今日の早朝活動は、検索のプログラムを書いていました。外部の検索サービスのAPIを叩く小さなプログラムなんですが、2年位前に作ったものを整備し直しているところです。 先日はデータの追加部分を作っていました。今朝は、過去のデータも含めて全部手元にダウンロードし直すツールを作っていました。まだ実際にダウンロードはしてませんけれど、小規模なテストはうまくいってるので大丈夫でしょう。 検索のプログラムというのは、自分が管理しているたくさんのウェブサイトを、横断的に検索するためのツールです。闇雲に小さなウェブサイトをたくさん作ってきたので、検索をちゃんと整備しないと、そもそも私自身が不便なのでした。 早朝活動では、朝の散歩の前に行う活動なので、ある程度のひとまとまりになるように心がけています。ひとまとまりの仕事を終えて、朝の散歩に出ると、大変気分が良いからです。 プログラムを書いていて、ある程度の進捗があると大変大きな達成感があります。プログラムですから、うまくいったかどうかがはっきり目に見えるからでもあります。 その達成感は、もちろん、作業のモチベーションアップにつながりますし、大げさなことを言うならば、自己肯定感にもつながっているように思います。 プログラムがうまくいくというのは、作っている本人にとっては大きな喜びです。客観的に見て大きな仕事を達成したかどうかとは、ちょっとニュアンスが違いますね。なので、何かうまくいったというプログラムを見たらその成果物がどれだけ些細なものであってもぜひ褒めてあげてください。 プログラムがうまくいって、モチベーションが上がって、自己肯定感が高まるというのは、それ自体は何も悪いところはありません。喜ぶのはいいですね。でもそれと同時に他者が言うことではありませんけれど、本人の中では注意しなきゃいけない部分があります。 いやいや、一般的に書いてますけれど、これは単に私個人の考え方の話なので、主語を大きくするのはやめましょう。これは私の話。 自分が作っているプログラムがうまくいったときには、心から喜ぶようにしています。もっとそんな心がけをしなくても心から嬉しいわけですけれど。 そこで得られる自己肯定感というのは、しばしば「俺ってばスゲー」みたいな考えに至ることがあります。ジョークや軽口で言ってるうちはまだいいんですけれど、自己肯定感が、尊大な自分につながっていくようだと注意が必要になってくると感じます。それはクリスチャンとして警戒する「自分に栄光を帰する」という態度につながっていくように感じるからです。 何かを達成したことがすごい。これはいい。何かを達成したことを喜ぶ。これもいい。これを達成できる技術を自分が持っている。これもいい。 しかし、これだけのことをできる自分は偉い。ここから警戒が必要になってきます。 自分に栄光を帰することを警戒する理由はたくさんありますけれど、1つは感謝の気持ちを忘れがちになるという点です。自分は偉いからこれこれのことができるというと、自分がそれを達成した際に助けてくれたものや助けてくれた人の存在を忘れてしまいます。それはよろしくないと思います。 もう一つは、客観的に考えても、自分に栄光を帰することは、理屈に合わない部分があるからです。もう少し言うならば、見ている範囲があまりにも狭すぎると言えるからです。 何かを達成するためには、様々なことを考えたり判断する必要があるわけですけれど、何かを判断したり、何かに気づいたりするという行為のどこまでが自分に帰することができるのか私には分かりません。 ここはわかりにくいと思うので、もう少し詳しく話します。 自分は何かを考えるときや思いつくときなど、すべての知的活動の根源を私は知りません。何かが頭に浮かぶとき、それが全て自分の意思から出ているようには私には思えないのです。心の中から、あるいは頭の中から何かが出てくるわけですが、それは自分が命じたから出てきたものとはなかなか言い切れません。これは多くの人にとって同じだと思うんですけれど、これは大変個人的な感覚なので、自分のことしか観察できません。なので、引き続き私個人のこととして話を進めます。 自分に浮かんだ考えは、どうやって頭の中に浮かんだか、私はつぶさに解説することはできません。もちろんいくつかは解説することができます。これとこれから論理的にこれが出てくるとか、これについては以前本を読んで知っていたとか。でも、それですが、どうして今まさにこのタイミングでそれを思い出したかという理由を私は説明することができません。 簡単に言うなら、あるアイディアが、自分の頭や心に浮かんだという第一原因を、私は説明することができないのです。強いて言うなら「ふと、それが浮かんだ」や「そのことにはっと気づいた」のようにしか表現することはできません。それはまるで空から何かが落ちてきたとか、真っ暗な中でおもちゃ箱をごそごそ探っていたら面白いものが見つかったみたいなそんな感覚です。おもちゃ箱ごそごそ探ることは自分の意思かもしれませんけれど、何が見つかるかは私の意思かどうかはよく解りません。 もちろん普段からおもちゃ箱に(つまり自分の心や頭に)どんなものを入れるかというのは、普段の生活習慣や学習かもしれません。それから、また暗闇の中でおもちゃ箱に手を入れようと思うことも自分の意思かもしれません。でもそこで見つかるものについてはどうでしょうね。 それからまた、比喩を続けるならば、おもちゃ箱に手を入れようと決心すること自体が、そもそもどこから来ているのか、私にはよく解りません。 本当に、本当に、深いところまで、第一原因のそれ以前の根本的な原因まで、探ってみると「これは私が偉いからできることだ」のように考えるのは、大変視野が狭い考え方のように思うのです。これは、道徳や倫理とは少し話が違うとも感じます。「自分に栄光を帰する」というのは、単純に考えが浅いというか、単純すぎるというか、子供っぽすぎると思うんです。 自分が何かを達成することを喜ぶのは嬉しいことです。でもそこから一歩を進めるとき、その方向はとても重要です。 これは私が偉いから達成できたことなのだ、のように、自分に栄光を帰するのか。 達成できたことが嬉しいので、私はそれを喜ぶ。そしてこのような状況に至らしめてくれた様々なものや人や、神に感謝するのか。そしてそのために感謝する対象を探すのか。 この2つの方向はずいぶん大きく違うと思うのです。 朝の散歩をしながら、そんなことを考えていました。
昨日またWeb連載「数学ガールの秘密ノート」《読み放題プラン》で結城の活動をご支援してくださる方がいらっしゃいました。ありがとうございます!  * * * 読み放題プランへのご参加について - Web連載「#数学ガールの秘密ノート」(結城浩)
:hyuki: 文章を書く入れ物について考えているうちに継続の意味について考えていました 入れものや枠組みのことをよく考えます。文章を書くときの枠組みもそうですし、本を作るときの章立ても同じです。広く解釈すれば、自分の仕事場の整理整頓や、本棚の整理や、机の上を片付けること(どのように片付けるか)も、また入れものや枠組みのことと言えるかもしれません。 舞台設定を整えて、制限して制限して、大きな制約をたくさんかけた上で初めて表現できるものがあります。考えはぐるぐる回っていて、気持ちはドロドロに広がっていて、どうやっても形になるものではないので、たくさんの制約をかけることによって無理矢理形にするのです。 入れものを用意しないで文章を書こうとするのは、例えて言うなら、飲み水を届けるのに手ですくって運ぶようなものですし、買い物袋を使わずにたくさんの買いものを全て手でもって運ぼうとするようなものです。そこに何を入れるか、どれだけ入るかは後から考えることにして、まずは入れものを用意する。これです。 入れものの形に、入れるものが影響受けて歪んでしまうことは避けがたいものです。それは仕方がありません。でも、逆に、自分が予定していた形ではない形に歪められることによって生まれる美しさもあります。 すべてを自分が制御できるのが良いとは限らないのです。 入れものを用意してそこに入れていくのは、ルーティンワークと言えなくもありません。そしてそれこそが、まさに、入れものを用意することのメリットであるともいえます。つまりそこには継続の予感があるからです。 繰り返し同じことを考える。繰り返し同じ気持ちを抱く。繰り返し同じところに引っかかる。つまずく。その繰り返しは自分の刻印ともいえます。自分のIDカードに描かれたランダムナンバーなのです。ですから、その繰り返しをとらえるために書くのです。 それは自分独自でありながら、独自ではありません。自分が繰り返し引っかかるところ、自分が繰り返し気になるもの。その多くは他の人にとっても引っかかるところであり、繰り返し気になるものであったりします。ただそれが完全に同じことはなくて、ほんの少しずつずれています。完全に一致するなら、それは同じ人間ということになりますから。 そうすると、入れものを用意して、自分の考えを文章という形にして、しかもそれを継続することは、自分が誰かを知ることであると同時に、他の人とのつながりを探ることであるともいえます。 あなたと私は何が同じなのか。あなたと私は何が違うのか。それを繰り返し確かめるプロセスです。 朝の散歩をしながら、そんなことを考えていました。
無料企画《結城浩ニュースレター》最新号を発行しました。今回の購読者数は1374名です。多数のご購読ありがとうございます!今回の内容は以下の通りです。登録なしでもWebですぐ読むことができますので、ぜひどうぞ! ◆結城浩ニュースレター | 2023年08月16日